鈴木敏文プロフィール
私も幼少の頃は、様々な症状に悩まされていました。
鈴木総合治療院、院長。 鍼灸師。
様々な治療法、健康法を学ぶ過程で
治療というものに疑問を抱き健康になるのは
本人以外には出来ないという結論に至る。
病気と健康の原理をまとめる過程において
根本的な問題は健康観の間違いと考えそれを正すことを目的に活動中。
病気の原因を「体の歪み」「食の歪み」「心の歪み」とし
それらを自分で正す方法を伝えている。
世界的食養の指導家、桜沢如一の弟子である松岡四郎に師事。
操体の創始者、橋本敬三医師の弟子、廣畑宗英に師事。
著書に「食のひずみを正す」(明日香出版)がある。
なぜわたしが【思いやり】を信条としているのか?
その理由を聴いていただけますか?
私がやりがいを感じるのは、患者さん本人が健康に関して自立し、その上に人生が楽しく充実することです。
医者や治療家が不要になって、自分で治したり予防したり健康増進できて、健康の別名である幸福を手にしてもらうことです。
そのために私は、表面的な優しさではなく、深い思いやりを心がけています。
また、思いやりをもって関わっていくために、健康指導を今の形にしました。
なぜ、思いやりを信条にしているのか?その理由を聞いて下さい。
なぜ友達があんなに元気なのか不思議でならなかった
幼い頃の私は、毎日病院に通い多くの症状に悩まされていました。
鼻炎で蓄膿症、慢性の頭痛、体温は35度台、血圧は70-30と低血圧、年中手足は冷たく、冬の間はワンシーズンずっと風邪をひいていました。
腹痛も頻繁で、学校の保健室にもよく行きました。
病院通いが日課で、食後に薬を飲むのは当たり前。
全身はいつもだるく、元気に走り回る友達を見ながら、なぜ、あんなに元気なのか不思議でなりませんでした。
ある日、腹痛の時や熱を出しているとき、両親が何かを開いて相談していることに気づきます。
それは5センチほどの厚さの「家庭の医学」でした。
それから「家庭の医学」は、私の愛読書になったのです。
私の解剖学、生理学などの基礎医学は、幼稚園時代に身についたモノです。
小学二年の頃、現代医学に限界を感じた私は、東洋医学や民間療法、様々な健康法などに関心が移りはじめました。
健康の問題を完全に消したかった
私の健康への問題は、大きな一つではなく、細かい無数の問題でした。
例えば蓄膿症を治しても、他のたくさんある症状は、相変わらず残ります。私の関心は、治療法ではなく「健康」でした。
例外のない法則性、健康の原理、それを適用した健康の技術でした。
その原理につながりそうなモノは、片っ端から学び続けました。
健康の問題を完全に消すために、可能な限りの時間とお金を注ぎ込みました。
その甲斐あって、私自身が納得できる健康の根本原理は手にできました。
私は健康の不安から解消され、人生から健康の偶然性はなくなったのです。
そもそも今の仕事をするつもりはありませんでした。目的は、自分のためだけだったからです。
しかし、この原理を知らないために、苦しんでいる人たちを見ることに苦痛を感じるようになり、それを伝える事を職業に選び、平成二年、23歳の時に鍼灸師免許を取得して開業しました。
健康の原理を基本通りに適用することで、順調に良くなるだけでなく、自分自身でも治せるようになってもらえることが何よりも喜びでした。
ある飲食店をやっていた方は、腰痛で仕事にならないと来院されましたが、自分一人でやる痛みの消し方で、ほとんど自由に動けるようになり、仕事中の間違った動作を正しただけで、半年ごとに再発していたのが、再発しなくなりました。
医者に手術しないとこれ以上は良くならないと言われて、三重県から来院された方も3度目には痛みは無くなり、自分でも治せるようになりました。
8年以上、噂に聞いて何件も通いづめたリウマチの方も、食事を正すと3週間ほどで痛みが消えて、当初は黙っていた十二指腸潰瘍も一緒に治ってしまいました。
また、年間に50本以上の講演依頼も受け、日本中をまわり、この原理をたくさんの人に伝えられることは幸せでした。
何よりも、私が東洋医学に目を移させた治療家で京都では有名な整骨院があったのですが、定期的に動けない腰痛になつては、その整骨院で治療していた方が、うちに切り替えた事は私にとって大きな自信にもなりました。
友人のお母さんの末期ガン
そんなある日、その頃知り合った友人にお母さんの末期ガンで相談を受けました。
そして健康指導がスタートし、入院先へも様子を見に行くようになりました。
家族が毎日三食、病院に食事を運びました。食事指導箋で出した料理を教えに行ったり、手当の方法も指導しました。ガンによる発熱で熱が下がらないと聞いたときも、教えていた方法で平熱になり順調でした。
半年ほどたったある日、その友人と会っているときのこと。
友人の電話が鳴りました。
「母が死んだって」
お母さんの訃報でした。
亡くなったのです。
思わず、「えーっ」ともらした後、私は言葉を失いました。
何も言えませんでした。
無言のまま、一変した友人の顔を見ていました。
私は、その現実を受け入れられませんでした。
頭の中で、「そんな事は・・・、治るはず」と渦巻いていました。
友人の車に乗り、10分ほどして駅で降りました。
その間、友人には何も言葉をかけられず、ただ、呆然として分かれました。
初めて診た時からの経過を振り返り、しくじった点を探す日々が続きます。
指導していた半年以上の時間を行ったり来たりしながら、思い返していました。
元気にする自信があっただけに、私には大きなショックでした。
「この経験が、あなたの将来に活かされれば良いと思う」
二ヶ月ほどしたころ、その友人がお母さんの話題をし始めました。
私は、まだ心の整理が出来ておらず、車の助手席で相づちで対応するのが精一杯でした。
私の指導してきた関わり方には、満足していない様子でした。
数分話して最後に、こう言われました。
「この母の事で、この経験が、あなたの将来に活かされれば良いと思う」
「分かった」その一言が精一杯でした。
それから、同じ失敗はしないように、改善する点を探し出しました。
最も気になっていたのは、指導中に確認する食事の日報です。それを読んで状況や体調を判断しながら、指導を進めていきます。
ところが、この食事日報をきちんと見せてもらってなかったのです。
「言われたモノしか食べてない」「今日は、持ってきてない」という感じで。
また、指導した料理のしかたが精確に伝わってなかったメニューもありました。
そういうミスがないように、いくつもの改善策を考えました。
ずっと残る胸のつかえ
思いつく改善策は講じました。
この経験を糧に、より良い指導ができるようになったはずです。
ところが何か胸のつかえが残るのです。胸を張って「この経験を活かした」とは、言いきれません。これで本当に必要な改善ができたと思えなく、日々、悩みました。
他に何か見落としていることがあるのか?何かが足りない気がするのです。
ずっと頭から離れず、胸のつかえもなくなりませんでした。
やることは全部やっているつもりです。でも何か引っかかるのです。
特に引っかかっていたのは、どうして食事日報をもっと強く求めなかったのか・・・。
それを考え続けるうちに私は、ある事を認めるしかありませんでした。
自分では見ないようにしていたけれど、心の中でずっと引っかかっていた、ある考えがあったのです。
私には、患者さんを思いやる気持ちが足りませんでした。
丁寧に接し、充分に気を配って指導していました。
しかし、
それは表面的な丁寧さや優しさであって、心の底から思いやって相手の立場に立つようなものではなかったのです。
自分の事のように考えていれば、食事の日報はその場で書かせてでも出してもらっていたでしょうし、もっと深く踏み込んでチェックしていたはずです。
命がかかっているような状況にも関わらず、当たり障りなく無難な対応だけの指導しか、できていませんでした。
私に足りなかったのは、技術的なことではありませんでした。
患者さんの事を思いやる、人間的な気持ちが欠けていたのです。
そんな欠けた部分を、技術だけで解決しようとしていたのです。
全ての改善点は、思いやる気持ちが充分だったら、勝手に改善されているものばかりでした。
私が本当にやりたかった事は、自分が見つけた病気と健康の原理を知らないがために苦しんでいる人たちから、健康の問題を取り除く事でした。
それをやり遂げるためには、機械的な技術やテクニックだけでは不十分で、その人の人生を自分の事のように、思いやる気持ちが必要だったのです。
そのためには、治療院としてのあり方も、根底から考えなおすことにしました。
患者さんにとって、何が困難か、何をして欲しいか、どうすれば速やかに身につくか、を自分が指導を受ける立場になって試行錯誤していきました。
カルテを見直し、一人一人を思い出して考えました。
そして、
健康をコントロールし医療から自立した人を作る実感
初診では、2時間以上を使っての丁寧に健康指導するようにしています。
病状によって必要な方には、夜中の急変にも対応していますし、こちらからも状況を確認するなど、以前とは違って生活の中で実行できるように気を配っています。
すると
淡路島から往復5時間をかけて毎週通院されていた方からも、いろいろ教えてもらえると喜んでもらい、そして、「もう痛みは自分で消せるようになりました」と言って卒業されていきました。
また、今までにたくさんの、中には何百万ものセミナーもいくつか受講されていた方から、
「今まででベストのセミナーだった。もう他のものを学ぶ必要はなくなった」と喜んでもらえました。
他には、会ったときには曇った表情で、どこへ行っても原因不明と言われて何も治療できなかった方からも、「もうこの先の人生で、病気になる心配もないし、なっても誰の手もかりず、お金もかけず治せるから、健康の不安はなくなった」と報告されました。
このように、ほとんどの方が健康に関して自立していただき、医療からスムーズに卒業していただけるようになったのです。
元々やりたかった、健康をコントロールし医療から自立した人を作る、という事をしている実感が味わえるようになりました。
悪くなる度に治してあげるという、イタチごっこの仕事ではなく、健康から自立した人が少しずつ増やせています。
私、鈴木敏文の信条
幼少の私のように健康に問題を抱えていて、なんとかしたい人
健康で元気になって、もっともっと人生を充実させたい人
健康の問題で専門家に任せるしかないと、あきらめている人
そのような人たちに健康の問題は、少し視点を変えるだけで解決できることを知って欲しい。
健康は自分でコントロールできるし、重篤な病気や症状ほど自分でしか治せないこと、自分でなら治せること、を伝えていきます。
このような経緯から、思いやりを私の信条としました。
お母さんが亡くなったあと、辛い時期であろう時に、そんな言葉をかけてくれた友人に感謝しています。